ベイスターズ 初代背番号3 高木豊 あの大量戦力外から23年…


この記事は歴代選手紹介背番号3です
今回からは背番号3の歴代選手を紹介していきます
背番号3第1回は初代背番号3高木豊です

◆あの戦力外から23年◆

私が小学校3年生の頃、学校の宿題で出された日記にこんなことを書いている日がある
『豊と屋敷と松本(豊)がクビになった。巨人から駒田をとるためらしい。いやな日になった』

当時まだ9歳の少年にとってもそれなりに大きな事件だった
まあ、この日記に同じようにクビになった市川や山崎、大門の名前がないのも気になるが…

ファンから大きな非難があったにも関わらず
功労者達を簡単に戦力外にしてしまう伝統は親会社がTBSになろうとDeNAになろうと
残念ながら改善はされていない

あの大量戦力外された選手の中で一番の功労者と言ってもいいのが高木豊
高木豊
今回は彼について記事を書いていこうと思う

◆身勝手とも言われたスーパーカートリオ◆

1980年のドラフト3位で指名された高木豊は1年目から1軍に80試合に出場し頭角を現すと
2年目からはセカンドのレギュラーとして1軍に104試合に出場
3年目のシーズンには打率.314打撃ベストテン6位にランクインした
4年目に56盗塁で盗塁王を獲得すると
翌1985年に監督に就任した近藤貞雄はホエールズの話題作りに一役買う意味も込めて
高木豊、屋敷要そして加藤博一の3人を「スーパーカートリオ」として積極的な盗塁を指示
「50個アウトになってもいいから100個走れ」と監督から告げられる
1番高木豊42個 2番加藤博一48個 3番屋敷要58個
3人で148個の盗塁を稼いだ
しかしチーム成績は4位で借金4
盗塁の数に比例して盗塁失敗も多く、スーパーカートリオでチャンスをつぶすことも多く
この作戦が果たしてチームの勝利でどれほど貢献できたかはわからない
また、豊・屋敷に至ってはこの時のグリーンライト指示で晩年まで身勝手とも言える盗塁が多かったとも言われる

◆豊は勝利より自分の成績に拘ったか◆

高木豊を「優勝より3割にこだわった選手」と揶揄する人もいる
3年目の1983年から4年連続で打率3割を記録すれば、1988年と1990年から1992年までの3年間と
プロ生活14年間で8度打率3割を残している
首位打者争いの常連とも言われた高木豊は間違いなくホエールズ晩年チームを支えた功労者である
しかし、彼はシーズン終盤になると打率3割を維持するために出場しなかったこともしばしばあり
1992年の遠藤一彦が引退するホエールズ最終試合にも出場しなかったことは
今でも大洋オールドファンの怒りの種になっていると聴く
また、盗塁も走る割に失敗が多く、1試合3盗塁死のワースト記録
通算の盗塁成功率は.643と通算300盗塁を記録している歴代選手の中ではワースト1位
勝利より自分の成績にこだわった選手というのは、間違いとも言えない
それでも、ホエールズ最後の年の1992年、キャプテンに就任
「目標は優勝」と高らかに宣言、チームを牽引し打率.300を記録した
しかし、この年のオフ高木豊は戦力外になる遠因を作る

◆年俸調停と戦力外◆

1992年オフ、3年連続の打率.300を記録した高木豊は年俸1億の大台に乗れると踏んで
契約更改に臨んだ
しかし球団は年俸ダウンの9330万を提示
前年より貢献度が下がったことで微減提示した
これに高木豊は怒り、年俸調停を申請そして史上初めて調停で年俸がアップした
しかしここでの年俸調停により球団と高木豊には溝は広がった
元々、投手陣に「俺が打ってるんだから打たれるなよ」と愚痴を言う
首脳陣の作戦に異議を唱える、サイン無視など
チームの方針に従わない高木豊だけに今回の調停は球団が豊を切る決断をする遠因になった

◆心の置き場をなくしたのは横浜ベイスターズに変わった瞬間◆

2010年にある雑誌での屋敷との対談で高木豊は現役時代を振り返りこう言っている

「逆に心の置き場をなくしたのは、横浜ベイスターズに変わった瞬間ですね。新しいチーム名で心新たにというのもあったけど、『大洋』というのに愛着があったから、寂しかったなあ」

1993年横浜大洋は「横浜ベイスターズ」に変わった
新監督近藤は、フレッシュな世代を積極的にレギュラーで起用する
三塁手に石井琢朗、遊撃手に進藤、そして二塁手には新助っ人ローズ
豊が守るポジションはなくなっていた
それでも首脳陣は豊をファーストにコンバートし130試合全ての試合に出場した
しかし打率は前年を大きく下回り打率.268
プロ入り2年目以来の打率2割6分台…力は確実に衰えていた
そして球団は、93年オフ屋敷や山崎賢一など共に豊に戦力外通告をする
参考記事:歴代選手紹介初代背番号2 こけしバットが支えた鯨低迷期
『何がなんだかわからない』
戦力外を受けた直後の豊は声を震わせてコメントした
同じく戦力外を受けた市川、松本はそのまま引退した
それでも3割を8度記録している選手なだけに中日や日本ハムから声がかかり現役を続けることができた
しかし前年打率.260台で終わったベテラン選手にはもう燃えるものはなかったのか
わずか65試合で打率.249で終わり、引退した
当時の日本ハム監督の大沢は
「高木はもっとやれると思ってとったんだが、あいつが打線のブレーキになるんだよな」と

後に語っている

◆ベイスターズ元年の悲劇はまた、起こるのか◆

高木豊という選手の評価はわかれる
3割を8度記録した天才打者と言う人もいれば
自分勝手な自己中打者という人もいる
しかし、高木豊がチームの勝利より自分の成績を優先させたというのは間違いだろう
「優勝しなければ意味がないんだよ、盗塁もヒットも勝てなければ意味がないんだよな」
引退後こう語る
だからこそ
あのベイスターズが優勝した1998年10月8日
記者席で涙しながら後輩達の晴れ姿を見ていた彼の心情は
我々ファンが「身勝手」とレッテルを張れない深いものがあったのだろう

この98年10月8日
鈴木尚典は、この高木豊の涙を見てあの日初めて優勝したことを実感し涙がでたという

豊は戦力外を受けた8年後の2001年にベイスターズの守備走塁コーチに就任するも指揮官森と意見があわず
1年でユニフォームを脱ぎ、それから2012年に再びベイスターズのヘッドコーチとして帰ってきた
梶谷、荒波といった自分とタイプが似ている選手の育成に精を出し
特に梶谷は今やベイスターズの中心選手となり
かつての自分の背番号をつけてプレーしている

現在はまた評論家としてテレビで出演しているが、やはり彼にはユニフォームの方が似合うと思う
もし、高木豊が93年に戦力外を受けなくても彼は同じように翌年には引退をしていただろう
だからこそ、球団には功労者を追い込むことなく
もっとうまく扱って欲しいと心から願っている

それから23年たった今
DeNAは「ファンサービス」を謳いながらも
功労者である多村、金城はベイスターズで引退を迎えさせてあげることが出来なかった
ファンサービスとは、ユニフォームや帽子を配ったりすることだけではないだろう

功労者を冷たくあしらう姿を見て、当の選手だけではなくファンも傷つくのだから

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  1. スーパーカートリオの時代は戦力的に優勝など全く望めなかった。私は毎日盗塁のみが楽しみだった。
    そんなファンも多かったと思う。3人で200盗塁それが当時のファンの夢であった。
    豊は屋敷とは違い足はさして速くはないが、センスで盗塁したタイプ。
    貴殿は知っているかな?当時、プロ野球の運動会が正月番組であり、その第1回目に各球団の俊足選手が顔を並べた、巨人の松本や、カープの高橋等々、各球団の盗塁王が出てきた。その時にブッチギリで優勝したのは無名選手だった三田学園出身の高卒の屋敷。盗塁センスがなく、足の速さで走った屋敷が好きだった。

    1. 歴史の証人でない私には高木豊を語るのは難しかったですね
      正にFOXさんのように当時の空気を知っている方の意見は参考になります
      屋敷のプロ野球運動会でのエピソードは私も知識としては知っていますがリアルタイムで見た人間ではないのでなかなか知りえることはできません
      確かにあの当時の戦力では優勝は難しいし今のようなCSもなかったわけだし
      盗塁のみが楽しみだったというFOXさんのお気持ちはよくわかるような気がします
      これからもオールドファンならではのコメントお待ちしております!

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