初代背番号1 進藤達哉 前篇 スイング軽くバットも軽く守備も軽かった進藤


今回から歴代ベイスターズ選手紹介も背番号1の選手を紹介していきます

現在ベイスターズは次期監督候補を選考している段階だが
候補の一人としてあがるのが進藤達哉ヘッドコーチ
しかしファンからはいまいち人気がないらしい

それでも今から23年前、そんなことはなかった

-(編集部)最近は編集部に来る葉書の中で「進藤選手を表紙にしてください」って言うのが多いんですよ
進藤「そうですか、嬉しいですね」

≪92年月刊ホエール ≫より

そしてその成果は

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決して現役時代は地味なイメージはなかった進藤達哉
華麗な守備でファンを沸かし
スイング軽くバットも軽く
一振りすれば、時々スタンド入りした男

進藤達哉を今回は紹介します(前篇、後編2回にわけて紹介)

▼ライバル琢朗と遊撃手の座を争った大洋時代

高岡商業高校時代、クリーンナップを打ち甲子園出場に導き
3回戦では後にチームメイトになる野村を擁するPL学園と対戦している

1987年山下大輔の後釜の遊撃手として期待され

大洋にドラフト外で進藤は入団します

背番号は36

山下引退後の内野陣は

高木豊以外は固定されたメンバーがいなかったため

1年目から進藤は1軍の試合に出場

2年目には9月6日に巨人桑田からプロ入り初本塁打を放つなど

56試合に出場 遊撃手としては45試合に出場します

3年目には中塚ファーム監督から

「若手のリーダーはお前だ」と指名されて

キャンプから精力的に声を出し

このシーズン最後の30試合に限定すれば

21試合遊撃手のスタメンとして出場しました

これで遊撃手のレギュラー1番手だった高橋から

レギュラーを奪ったように思われましたが

4年目は打撃面での不調でファーム出場が多く1軍は20試合前後…

「プロして5年目、仮に大学行ってたら1年目、今年ダメならもう一度考え直さないと」
と悲壮感を持ちながら

1992年ホエールズ最後のシーズンを迎えました

キャンプから早出早打ち打撃改造を模索し
バットも短く持つようになりました

その甲斐あって
進藤はこの年初めて開幕スタメンの座を勝ち取ります
ところが開幕してまもなく4月14日に試合前練習で
怪我をしてしまい戦線離脱…

しかも、ここで進藤の座を脅かすライバルが思わぬところから出現します

それがこの年から内野手に転向した石井琢朗でした

進藤の離脱の間
琢朗がレギュラー遊撃手として活躍します

ところが
今度は琢朗が怪我をし
進藤に再びチャンスが回ってきます

そのチャンスをしっかり進藤はものにし
5月19日の神宮で満塁本塁打
6月6日には札幌で9回土壇場阪神田村から同点本塁打を放つなど
貴重な一発を打つなど印象的な活躍を魅せます

ホエールズ最後の年に108試合に出場した進藤
翌年から生まれるベイスターズの中心選手として
ファンも球団も期待します

▼背番号1の山下大輔2世

監督代行から編成部長となった江尻に

「捕球と同時に送球の準備ができているのはリーグで進藤位のもの」

と高い評価を受けて

球団から背番号36からを与えられ、山下大輔2世として大きな期待がかかります

93年から横浜ベイスターズと名前の変わったチームの中心選手

そして内野の要遊撃手としてスタートを切った進藤は

チームが開幕から5連敗すると

ハマスタで9回裏逆転サヨナラ本塁打を放ち

ベイスターズ初勝利を演出

また昨年ライバルだった

石井琢朗はサードのレギュラーとなり

遊撃手進藤、三塁手石井琢朗と鉄壁の三遊間でした

93年は127試合出場、本塁打12

チーム日本人では

7年ぶりの2年連続2ケタ本塁打を放ちました

しかし昨年4つだった失策数は12個

これについて本人は

-まあ初めて外国人選手と二遊間コンビを組んだこととか、やっぱり不慣れなとこもありました
(月刊ベイスターズ1994年 7月号インタビューより)

その外国人セカンドローズも

進藤から日本の野球における連係プレーやサインプレーを指導され

98年ゴールデングラブを獲得します

ん?ローズ監督進藤ヘッドっていいコンビかも

ちなみにこの記事を書いているのは10月4日現在なので公開された時

監督決まっていたらすいません

そして翌94年は開幕2戦目に
初めて1番打者としてスタメン出場

試合前打順を聞かされて戸惑う進藤に

近藤監督や大矢ヘッドは「まあいいじゃないか、打ってみろよ」と送りだされ

それ以降多くの試合を1番打者として出場しました

95年も規定打席に到達した進藤

順風満帆な野球人生も

ヘッドコーチの大矢が96年に監督に就任すると

また新しい試練が進藤を襲います

▼セカンドからサードへコンバート、そして頭部死球

96年大矢監督の改革第1弾は

怪我にも強く強肩の琢朗を内野の要の遊撃手にし

怪我が多い進藤セカンドにすることで負担を減らし

二遊間を守備の巧い日本人で固め

セカンドだったローズを
サードに転向することで打撃に集中させることが狙いの大コンバート

キャンプでも戸惑いながらも各選手は練習していました

ところが進藤は慣れないセカンドで怪我

サードローズはエラーが増え打撃にも影響し

結局セカンドにローズを戻すことで

進藤は再々コンバートでサードにうつります

しかし、96年は度重なるコンバートが負担となり怪我をし

わずか67試合で5年ぶりに200打数を切る195打数でシーズンを終えます

そして97年

進藤は春先から好調でした

リストの高い強いバッティングは

春先には本塁打争いを松井と演出

打率も3割を超え、チームをけん引し

6番を打つことも5番を打つこともありました

球団が進藤の怪我の多さからその不安で進藤のライバルとして

サードの助っ人で獲ったセルビーとの争いも完全に勝利していました

しかし、5月にヤクルト吉井から頭部に死球を受けて

戦線離脱

チームにも本人にも痛い痛いデッドボールでした

そして進藤が離脱中のサードには2つ上の川端がレギュラーに入り

打率は規定不足ながら3割を残す活躍をみせます

セルビーに勝ったのに

新たなライバル川端が登場

進藤の野球人生は

まさに度重なる怪我とライバルとの戦いでした

しかし、進藤はまたしてもこの試練を乗り越え98年10月8日を迎えます

長くなったので

歴代ベイスターズ選手紹介~背番号1~進藤達哉 後編に続きます

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