ベイスターズ初代背番号2 山崎賢一 こけしバットで支えた鯨低迷期


さて、今回からは背番号2の選手
を詳細に語っていきます
ちなみに00~1までは終わっているのでこれ読んだ機会に
ぜひ、こちらも↓リンクで飛びます
00川崎義文~東野峻

0石井琢朗~山崎憲晴

1進藤達哉~金城龍彦

ルーキー投手に背番号1を与えることに賛否両論ありますが
まずは歴史を見よう!ってな具合でどうか読んで下さい

━─━─━─━─━─

今回は背番号2をベイスターズで最初につけた山崎賢一です
参考記事;歴代選手紹介~背番号2~総論

「4番ライト山崎賢一」
ファン歴30年以上の方であれば
この響きが持つ絶望感打てないホエールズという記憶弱くて人気のない大洋
という匂いを思い出すことでしょう

いやでもどことなく感じる懐しい潮の香り、本当の大洋はあの時だった
鯨が海に潜り星に変わる最後の輝き
オールドファンが「あの頃は人気なかったけど面白かった、懐かしかった」
と語る「あの頃」とは
まさに「4番山崎賢一」とウグイス嬢からコールされ
エレクトーンが流れてこけしバットを持った山崎が打席に入る姿だった
のではないでしょうか

今回はその山崎賢一について語ります


▼こけしバットを手にしたドラフト外

1980年所沢商業よりドラフト外でホエールズに入団した山崎賢一
背番号は46と特に期待もされていない外野手でした
入団してからは1軍に上がることもなく2軍で基礎体力を鍛える日々
「プロでやっていけるのか」
山崎の心は不安でいっぱいだったようです

背番号が59に変更され
後がなくなった山崎に5年目転機が訪れます
「スーパーカートリオ」の生みの親で
おなじみの近藤貞雄が監督に就任
機動力を重視する指揮官の目に山崎が止まり
85年4月24日の広島カープとの試合で一軍初出場
10月16日の中日との最終戦ではプロ初本塁打も打ち
なんとかプロでの第1歩をきることができました

しかし加藤博一、屋敷要など外野手が固定されていた時代
山崎にはレギュラーを獲得するチャンスがなかなか巡ってきません
そこで当時2軍のコーチであった基満男
長打を捨てて単打を増やすことを徹底させるために
グリップエンド部分がこけしの頭をした
「こけしバット」を考案
代名詞こけしバットを手にした山崎は
レギュラーを獲得するまで後一歩というところまできます


▼低迷期を支えた山崎賢一のこけしバット

それでもレギュラーを掴めきれていなかった山崎は
89年のキャンプこけしバットで増えたヒットだけに頼るのではなく
外野の守備練習にも精力的に力を入れ、打てて守れて走れる打者へと変貌します

そして念願の開幕スタメンをこのシーズン勝ち取ります
このシーズン山崎のバットはおもしろいようにヒットを量産します
右へ左へ単打を打てば気づけば首位打者争い
また、山崎は足も速かったので、シングルの当たりも長打にし、まさかまさかの2塁打も24本

しかし山崎が活躍する一方で
チームは5月27日より1度も浮上することなく最下位独走
1年で10連敗と11連敗を2度経験する弱小チームでした

それでもオールスターには中山裕章と共に選出され
落合・和田・岡田・クロマティといった錚々たるメンバーと肩を並べます
第2戦では優秀選手賞を獲得する活躍を見せます

さらにシーズンではそれまで4番として活躍していた
カルロス・ポンセが他球団に研究され突如不調に陥り
老眼の影響だとメガネをかけたり試行錯誤してましたが成績は上がらず
代わりに山崎が4番を任されることが多くなり
これが冒頭の4番山崎誕生の瞬間でもありました
長打率.424 OPS.765 本塁打7 の低空飛行の4番打者でした
オフにはゴールデングラブも受賞します

オールスターの活躍と、こけしバットを持った弱いチームの4番打者は
ワイドショーなどでも取り上げられ全国区となり
高校球児の間で「山崎さんのこけしバット」を買い求める選手がいたほどでした
(90年FANBOOkより)

名実共に大洋の中心選手になった山崎は
翌90年より背番号を2に変更

チームの顔として、90年のFAN BOOKでは見開き2ページで紹介されます

t02200396_0480086413474052201

 

▼こけしバットの使い手だからこそ生まれた体の不調
チームの中心選手として確実に成長していた山崎
しかしこの頃から腰痛に苦しむようになります
90年のシーズンは打率が前年より5分落ちる.259

野村、遠藤、高木豊
と共にオールスターに2年連続出場し
外野のゴールデングラブも2年連続で獲得するも
首位打者も期待されたシーズンだっただけに
本人にもファンにも不満の残る1年になってしまいました

91年は、新助っ人レイノルズ捕手からコンバートされた宮里
ホークスから移籍してきた畠山
などとのレギュラー争いに敗れ
出場試合数は54試合まで落ち込みます

かつて4番まで任された山崎には寂しすぎる成績でした

92年ホエールズ最後のシーズンでは
「具体的な数字や目標は口にしない」
「無言実行」を心にレギュラー再奪取をかけたこのシーズン
選手会長に就任し
チームを引っ張る立場を期待されました
考えてみれば山崎はホエールズ最後の選手会長だったんですね

しかしこの92年も体に痛みを抱え満足したシーズンを送りません

それは小さい体でありながら、1キロのこけしバットを持って戦い続けた山崎の避けられない痛みだったのかもしれません


▼こけしバットは福岡に飛ばされた

それでも93年生まれ変わったベイスターズで再びこけしバットを手に背番号2は戦い続けます
この頃には外野手はメジャーバリバリのブラッグス若手成長株の畠山、宮里、横谷
ルーキーの佐伯内野手から転向予定の高橋眞裕、そしてベテラン屋敷要…
山崎がレギュラーを勝ち取るには多くのライバルがいました

しかしベイスターズと名前が変わったチームには、
鯨を支えたこけし躍動する舞台はありませんでした

60試合守備固めや代打を中心に試合に出ていた人気のある功労者に
ベイスターズ球団は血の涙もない宣告を告げます
いや、これからベイスターズファンが何度も味わう寂しい不可解な悲劇
ともいっていい伝統芸はここから始まりました

功労者に対する突然の戦力外通告
高木豊、屋敷要、山崎賢一、松本豊、大門和彦、市川和正など
93年のシーズンもクビを切られるほどの結果を残したわけではないにも関わらず
簡単にクビを切られた、大量解雇でした

このカラクリが巨人からFAで補強する駒田のための資金であった
ファンが知った時
この怒りはその駒田に向き
果てしない野次合戦になってしまったことは
ここで語る必要もないほど有名な悲しい話でしょう

そこで戦力外を受けた山崎は、福岡ダイエーから直ぐにオファーが届きます
低迷の続くダイエーには
守備も走塁も打撃も計算でき全国的な人気も見込める山崎
資金があまりかからない戦力外で獲得できるのは願ってもないことだったでしょう

ダイエーでは背番号26をつけ活躍
サヨナラヒットを放ち「横浜を見返せてよかった」と新聞記者に語る姿は
古巣のファンも拍手を送ったはずです

ダイエーで3年間在籍した山崎は
96年に現役を引退
その後はダイエーのコーチやスカウトを歴任しています

しかし引退から20年近く立とうとしている今も
彼がベイスターズのユニフォームを着ている姿を我々は見られていません

▼古き良き時代の4番打者山崎
古き良きホエールズ時代と言う言葉がピッタリな山崎賢一
こけしバットでヒットを量産、一番ヒット打つからと4番を任されてしまうあたり
世間はバブル期でありながら、横浜大洋だけが昭和40年代のような雰囲気が漂ういい時代でした

エレクトーンの出囃子からこけしバットを持って打席に入り
私設応援団「横浜山崎一家」が山崎の応援歌の前に前奏をつけ
初球を必ず見送る山崎賢一

元号が平成になってもどこか昭和の香がまだ残ったグランドでした

実はこんな偉そうに書きながら
山崎がベイスターズを離れた時私はまだ小学校3年生
「山崎の良さがお前にはまだ分かっていなかっただろう!」
とオールドファンの方には言われそうですが
それでもあの当時の球場の雰囲気、スタンドの匂い、ブーテキのおじさんの立ち売り
何もかもが私の頭の中に最初に残った野球の記憶です

山崎の1年しか使われませんでしたが、ベイスターズ時代の応援歌かっこ良かったですよね
「こけしバットでさあ、フェンスオーバー」
当時はプロにも作詞作曲を頼んでいた時代だけに名曲が揃っていました

ホエールズ末期を支え
ある意味ベイスターズの98年の栄光の犠牲にもなったと言える山崎賢一

t02200396_0480086413474027414

彼の栄光や名誉が再び今のファンにも伝えられるには
彼が再びベイスターズのユニフォームを着ることだと思います
そしてそんな日が訪れるとまだ秘かに願っております

次回は山崎の後に背番号2をつけた波留敏夫について書いていきたいと思います

ここまで読んでいただきありがとうございます
最後に応援クリックお願いします! (※ブログ村に移動します)
にほんブログ村 野球ブログ 横浜DeNAベイスターズへ

記事更新時に通知を受け取ることが出来ます。

関連記事

  1. >30年目のファンさん
    おう、松本豊さんに大門さん、そしてこの相川って
    相川英明さんですか?懐しいですね!みんな私の幼い心を魅了してくれた選手です!!
    凄く選手と縁の深い処にいらしゃったんですね!!

    野川はほんとに期待していますよ!プロ入り前から個人的には期待していました!弟さんもプロに後輩が入ったのは感慨深いことでしょうね!

    北川がいた時の大宮東は強かったみたいですね!!30年目のファンさんの出身高校もなんとなくわかりました笑
    今埼玉の高校野球のレベルかなり高いですからね!これからプロで活躍する高校球児が多く誕生してくれるでしょうね!!

  2. >3番 左翼 鈴木尚典さん

    補足しますと、当時同じ区には他にも大門さんや松本豊さん、相川さんなどもお住まいでした。特に大門さんと松本豊さんは同じマンションで、やはり学校帰りにわざわざ見に行ったことがありました。
    管理人さんの先輩である長田の出身区もベイスターズの選手を多く輩出していますね。私の住む区は他球団の選手は数名出ていますが、ベイスターズの選手は未だ出ていません。
    ちなみに、今年のドラ7で入団する野川は、私の弟の高校出身です。私が高校生の時には野球部すらなかった高校だったのですがね。私の出身校も、プロ野球選手はこれまで4人出ているものの、ベイスターズ入団者はまだおらず、先を越されてしまいました。高3夏の予選で、最後に対戦した相手校にいたのが、元オリックスの北川でした。
    埼玉の高校球児は浦学出身者以外がおとなしい状態ですので、野川には頑張ってほしいです。

  3. >30年目のファンさん
    やはり、ホークスのスカウトは山崎さんだったんですね。映像で見て似てるな~と思っていたんですがやはり、まだホークスのスカウトをやられているんですね!!
    大学のお近くに山崎さんがいたんです!!!!
    それはテンションあがりますね!!
    確かに当時は名鑑に住所書いてありましたね笑
    しかも電車に横谷、宮里、山崎が乗ってきたところに出くわすとは!?
    凄いですね!!声かけられない気持ちわかります
    皆さん、少しダンディーすぎて怖いですもんね笑
    特に一時期、宮里さん・山崎さんはヒゲをはやした時もありましたもんね…あの時は小学生ながら斉藤明、屋敷コンビのヒゲより怖く感じました
    しかし、ほんとにホエールズ・ベイスターズの思い出や知識が豊富で勉強になっています
    また、色々教えて下さい

  4. 少し遅くなりましたが、こちらにも。いつも懐かしい記事を本当にありがとうございます。
    「山崎4番」は苦しい時代の象徴ですね。懐かしいです。今でこそ「番長」といえば三浦か清原(ベイスターズファンなら三浦一択ですが)ですが、山崎さんがベイスターズの初代番長でしたね。
    わりとすぐに横谷さんとか宮里さんが台頭するなど、全盛期は決して長くはなかったですが、やはりこけしバットが強烈な印象に残っているのと、ドラフト外で入った同郷出身者ということで、応援していました。
    先日のドラフトでは、ホークスドラフト1位の高橋純平に挨拶に行って、帽子をかぶせていたのが山崎さんでしたね。移籍後、1度も福岡を離れていないみたいですが、横浜に帰って来る時はやってくるでしょうか。
    ちなみに、山崎さんの当時の自宅は私の通っていた大学のすぐそばにありました。選手名鑑で住所を知ってびっくりして、友人と連れ立って見に行ったこともあります。それこそ、横谷さんと宮里さん、そして山崎さんが同じ駅から電車に乗り込んできてテンションが上がったことも(3人とも同じ区に住んでいたので、行動を共にしていたのでしょうか)勇気を出せずに声をかけられなかったのもいい思い出です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。