ベイスターズ4代目 背番号2 内川聖一 移籍で広がったファンとの溝


この記事は歴代ベイスターズ選手紹介~背番号2~です
久々の歴代選手紹介です
3代目背番号2金城龍彦~2番金城、森野球最大の失敗の後の選手です

ベイスターズが育成した内川聖一

現在侍ジャパンが世界一を目指して戦っているが、そのチームに彼の姿はない
プレミア12、日本シリーズとチームを支える精神的支柱として期待されていた男は
残念ながら、全プロ野球選手が憧れるこの2つの舞台に立つことができなかった
その男は、内川聖一

今や球界を代表する右バッターである
ホークスでもキャプテンとしてチームを牽引する

自他共に認めるホークス生え抜きの選手だ

しかし自他が認めても
ベイスターズファンは彼が横浜の地に居たことを知っている!

冗談はさておき
今回は金城が2001年に背番号2をつけた翌年に背番号2をつけた内川聖一について書きます

◇ベイスターズ背番号25時代の新人時代◇

大分工業から、曰くつきでベイスターズにドラフト1位で入団した内川聖一
背番号は25番をつける
(このあたりの話は背番号25の歴代選手紹介で書きます)

鈴木尚典、石井琢朗、佐伯そして古木、七野と左打者の多かったベイスターズでは
右打ちで高校通算43本塁打、大型内野手の内川には大きな期待がかけられたが
しかしルーキー時代シーレックスで規定打席に到達するも打率.219
田代シーレックス打撃コーチが
「内川は、大きな故障もなく頑張ったが、まだまだプロのスイングになっていない」
と評価は辛かかった

それでも9月はイースタンで月間打率.304とシーズン終盤には1軍の試合に初出場する

◇レジェンド琢朗が期待した内川遊撃手◇
2002年の2年目のシーズンからは球団は内川に背番号2をつけさせる
球団の内川に対する大きな期待の表れだが
この球団のいい背番号をすぐに選手に与える姿勢はあまり好きじゃない
(佐々木→べタンコート、琢朗→野口などもそうだが、ルーキー熊沢に背番号1をあげるのも納得いかない)
:2002年:
それでも期待に応えるために2年目のシーズンは
「1年間ベイスターズのユニフォームを着る」と強い気持ちで開幕に臨み
中日ギャラードから4月24日に初安打、7月7日には中日山井から初本塁打を記録
1軍に42試合に出場する
:2003年:
3年目のシーズンでは、入団前から憧れていた石井琢朗が極度の不振に陥り
石井はスタメンを外された日に自ら監督山下に降格を願いでて、内川を自宅に呼ぶ
「これからはお前らの時代だ。お前らが前に出ていかないとこのチームは強くならない」
憧れの選手の一言が胸を強くうっただろう

この頃の内川についてその石井琢朗は2004年の月刊ベイスターズ8月号でこう話している
「ロッカーも隣で、内川はベイスターズ背負って立っていかなければならない選手。近い将来ショートを守る人間だろう。僕がひとつのプレーにキレていると内川が『石井さん、切り替えていきましょう』と言う。凄い選手ですよ」

チームの主力、レジェンドも内川は大きな期待をかけていた
このシーズンは、規定打席に届かなかったものの打率.313と残すが
1軍に昇格しては怪我という繰り返しのシーズンとなってしまい1軍に定着できない
:2004年:
4年目のシーズンではようやく内川の打撃に片鱗が見える
前半戦は前年のシーズン不振だった石井琢朗が復活し
遊撃手琢朗、セカンド内川と憧れの選手と二遊間を組んだ
守備では4月7日の試合ではセカンドとして1試合最多守備機会17回のプロ野球記録
打撃では5月18日の巨人戦で1試合3本塁打を放ち、“アゴジラ”というニックネームまでつけられる
ラビットボール全盛期ということもあってか17本塁打を放つシーズンとなった
得点圏打率は4割後半を記録するが、後半戦で再び怪我をし、オフには膝の手術を受ける
:2005年:
翌年は、セカンドで種田が好調だったために開幕直後人生で初めて外野手に挑戦
持ち前のセンスでそつなくこなし、レフトのポジションを古木、小池と争うも90試合に出場に終わる

:2006年:
6年目のシーズンでは再びセカンドとしてレギュラーを掴むも送球難でややイップス気味になる
1初めて怪我なく124試合に出場し1年1軍でシーズンを終えたが
内野手としては失格の烙印を押され
3年前「近い将来内川は遊撃手のレギュラーになる」と琢朗に言われた選手は
ついに外野手登録として2007年のシーズンに挑むことになる

◇首位打者ベイスターズ内川の誕生◇

:2007年:
多村の移籍で空いた外野のレギュラーを掴むために
外野手登録で出直した7年目のシーズン
キャンプ直前に扁桃炎で入院するも開幕1軍入りを果たすところが結果が出ずに2軍に降格するなど
92試合の出場でシーズンを終える

:2008年:
レギュラーを掴みかけながら、怪我と不調で降格を繰り返した内川を
ファンも「トレード候補だろ」と言い始め2008年ようやく大輪の花を咲かす
佐伯の不振、新助っ人JJ、ビグビーも期待外れ…空いたファーストのレギュラーを内川が掴む
守備の負担もなくなった内川はようやく打撃が開眼
元々定評のあった右打ちの技術に、この年から打撃コーチをしていた杉村繁の指導
ボールを体の近くまで引き付けて打つことを意識させられ、広角に打てるようになり
シーズン当初から首位打者を独走打率も長い間4割を維持する
オールスターにも初出場、この年の第2戦が行われた横浜スタジアムでは4安打を放ち
前日の第1戦から続く5打席連続安打この記録は2000年のイチローに並ぶ記録だった
そして、このシーズン右打者最高となる打率.378を残し首位打者になる
最高出塁率、最多安打も記録した内川はもちろんベストナインにも選ばれた
この年、同僚の村田もホームラン王に輝き
首位打者と本塁打王が在籍したベイスターズ、しかしチームは48勝94敗
ダントツの最下位であった
そしてこのシーズンで、内川があこがれ続けた石井琢朗は横浜のユニフォームを脱いだ…
内川の中でベイスターズ、横浜球団に対しての怒りが芽生えたのもこの時だろう

◇世界一を経験した男のフラストレーション◇
2009年日本球界は、3月に行われるWBCの話題で持ち切りだった
前年の北京五輪で「金しかいらん」と熱く星野監督が語り率いた日本代表は
ほんとに金メダルがとれないとわかると、銅メダルすら持ち帰ってこず
「カネしかいらんかったのか」とまで揶揄された
その半年後に行われる09年のWBCの監督問題ではその星野仙一が候補にあがるも
イチローを初めメジャーリーガーがそれに反発
「北京のリベンジの舞台ではない」と暗に星野のWBCの日本代表監督就任を拒否
二転三転した監督は巨人で指揮をとっていた原が就任する
監督問題が難航したものの
侍JAPANと名付けられた日本代表は宮崎サンマリンスタジアムでキャンプを合宿を開始すると
あのイチローを松坂を生で見れるとあって連日4万人を超えるファンが押し寄せた
そのメンバーに内川もチームメート村田と共に選ばれる
内川は開幕戦の中国戦では出番のなかったものの
東京ラウンド2回戦の韓国戦では6番ファーストで先発出場、2打点と結果も残す
その後は左打者の先発する試合ではスタメンで出場し
第2ラウンドの順位決定戦、4度目の韓国戦では本塁打も放つ

そして決勝の5度目の韓国戦
怪我で離脱した村田の分まで頑張ると誓った内川は猛打賞
あの伝説のイチローの決勝打を演出する安打を10回表に放ち
イチローのヒットでホームに還ってくる

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全国的に内川の名前は知られるようになり、ここで現在の伴侶までゲットする
またこの試合では、5回で「元内野手でしたから」本人が語る
スライディングで2塁打になる当たりを素早く送球してアウトにするなど守備でも魅せた
緊張感の続く試合を終えた後の歓喜の快感まで知った内川を

帰国後待っていたのは所属チームの現実だった
村田の怪我で開幕4番を初めて任された内川
これで全打順を経験することになるが
WBCでの優勝経験後も「横浜で味わいたい」と話していたが
ベイスターズの現実は辛かった
監督の大矢は5月にはチーム低迷の責任をとり休養、チームの勝利は遠のく
台覧試合で結果を残しても、2年連続打率3割を残しても彼の心に残るのは虚しさだった

その虚しさは、憧れの琢朗を解雇した球団への怒りにもなり
この年のオフに私の愛読誌東京スポーツの取材に
「2年結果を出したのに契約更改下交渉でのアップ額に納得いかない」
「ファンの野次が酷い、僕がいなくなってわかることもあるんじゃないんですか」
「これ、全部書いていいですよ」

と、ファンにまでフラストレーションがたまっているような状態だった

チーム低迷の怒り、低迷の怒りを自分に飛ばす一部ファンへの怒り
抑えきれない彼の怒りは
球団と内川の温度差以上にファンと彼の距離まで広げてしまったように思う

そして2010年シーズン、本人の希望通り開幕からファーストを守っていたが
途中入団の助っ人ハ-パーが外野も出来るという話だったのに
ファーストしか出来ないことが判明、その煽りで外野での出場機会が増えると
内川のベイスターズ対する思いは消えていく
オフにFA権を取得した内川に、タイミングが悪い事にベイスターズの身売り話が出て
内川との交渉が滞り、終いには加地球団社長が同じようにFA権を取得した村田をキャプテンを指名
横浜への思いが、ここで完全に冷めた内川はFAを宣言

広島、ソフトバンクとの交渉し地元のホークスに移籍する
ホークスに移籍後は、チームを牽引し生え抜き以上に生え抜きらしい言葉と態度で
内川移籍後、3度チームを日本一に導く
今シーズンもキャプテンとして背番号1をつけて
柴原2世として、いや秋山2世として福岡の宝になっている

◇内川とベイスターズファンの縮まらない距離◇
内川は間違いなく球界を代表する右打者だ
今年ヤクルト山田という大型右打者が誕生したが
それでも広角に打てる内川の打撃センスは誰も真似できない
そして彼のホークスで魅せるキャプテンシーはベイスターズ筒香にも見習って欲しいものだ
移籍して5年経ち、ベイスターズファンの内川への思いは徐々に変わっているとは思う
それでも私は彼が移籍後にメディアを通じて発した古巣横浜への苦言の数々
いや、苦言であればいい、愚痴と言った方がいいものまであった

それは
まるでフッタ女の悪口を新しい彼女に話す男みたいで非常に小さく見えた

それはベイスターズファンが交流戦で内川に大きなブーイングをしたことにも納得がいってしまい
そしてそれに応戦した内川にさらに気分を悪くした

普段辛口で言いたい放題記事を書く私ではあるが、球場で野次を飛ばしたりはしない
野次もひとつのプロ野球を楽しむ文化であると私は思っているが
単純に家族連れも多いスタジアムでの野次や暴言は好ましいものとは思えないからだ
しかしそれでも内川へのブーイングは積極的に同意はできないがわからなくもない
あれだけの発言を遠く福岡で好き勝手にされてしまえば
ファン心理としておもしろいものではない
球団を悪くいいたいのはわかる

彼の言ったことが正しいかどうかは、この球団を応援しているファンが1番わかっている
明らかにこの球団はあの時腐り切っていた
しかしその球団から出ていき、上位のレベルの高い球団に行ったのであれば
古巣のことは口を閉ざしても良かったはずだ
もちろん、内川に古巣の悪口を言わせようといじわるな質問した記者に
なくなく答え、それを誇長された可能性もある
さらに当時は石井琢朗はじめベイスターズから移籍した選手が古巣への苦言をいうことが目立った
それでも内川は戦力外を受けたわけではない
FA宣言で好んでこの球団を出て、移籍したわけだ
古巣への質問には口を閉ざすことも出来たはずだ

彼にとっては古巣の体制に愚痴をいっただけかもしれない
しかしその先にはその古巣の腐った球団を応援しているファンがいることを忘れて欲しくなかった

その点については村瀬秀信の「4522敗の記憶」の中で内川は話す
「本当に僕の伝え方が拙かった、事の真意をうまく伝えられずいろんな人に悲しい思いをしてしまった」
おそらく内川にしかわからない事情もあったのだろう
しかし誤解を招かないためにもうまく対応して欲しかった
現に内川が移籍した年に戦力外を受けて中日に移籍した佐伯は
古巣への質問には
「俺が何か言うとベイスターズに悪い、そこだけはわかった上で記者も取材してくれ」
と話していた
もちろん、その佐伯の発言ですら、おもしろおかしく報道されてしまったが…
(佐伯は中日移籍の時の取材時での発言が歪曲され、ベイスターズ批判をしたかのように報道されたので、2軍監督1年目にはタブロイド紙からの取材に『そうそう、ベイスターズに勝つためにやってるの!嫌いだから』と歪曲される取材に呆れてわざとこう発言したことまである)

しかしベイスターズファンも内川が横浜憎しで移籍後も苦言を言ったとも思わない
ホークスでチームを鼓舞する彼の姿を見ると
やはり、彼は純粋に野球を高いレベルでやりたかっただけ
だからこそ、ベイスターズでも本気で優勝を狙っていたんだろう…

しかしチームは崩壊、選手もバラバラ…球団の背広組も保身ばかり
こんなチームで野球をやることはプロ野球選手としての誇りを持てなくなっていたのかもしれない

それでも彼には
そんなチームを応援するファンの存在には誇りを持って欲しかったが…

しかし親会社も変わり生まれ変わった今のベイスターズは
内川が愛想を尽かしたチームとは違う
ファンもあの時より増えた
今のベイスターズファンには内川への負の感情はないだろう
だからこそ、近くはないだろうが、遠い将来彼
このチームに指導者として帰ってきて欲しい
ベイスターズの選手であったことに誇りを持ってもらうためにも

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